- 業田良家「新・自虐の詩」
- 次号最終回。あれこれ考えたけど,私の中ではこの作品の解釈は「小雪を作った者ですら予期していなかった,小雪の『人の心の芽生え』を描くことで,人間が人の心を失いつつあることを逆説的に描いている」というところに落ち着いた。
- 上で強調したように,今作ではロボットに芽生えた意思とロボットを作った人間の意思が異なる点が重要であり,この時点で「ロボですら人の心を持つのに人間は――」という解釈はさくっと却下される。ただ,このテーマと「現代社会の貧富」というテーマ,どちらが目的でどちらが手段かは,まだ議論の余地がありそう。
- それでもなお残る違和感は,小雪が「マリア様」と称されていること。ロボットは人間が作り出した存在であり絶対的存在ではない。人の心を持った小雪ですら「本来の人間」程度の存在に過ぎないはず。にもかかわらず,神を連想させる呼称を用いている点が,端的に言って気持ち悪い。「マリア自身は神ではないのでこの解釈は穿ち過ぎ」と言われたらそれまでですが。
どうもです。
何か最近の「新・自虐の詩」が、4コマとして成り立っていないような気がしてならないのですが・・・。
僕がこんな風に思う理由としては、4コマの本質がギャグにあり、4コマ目には必ず何かしらの形で笑わせる(笑わせようとする)姿勢が必要だと考えているからです。
しかるに、この「新・自虐の詩」は、同じシリアス系4コマの「棺担ぎのクロ」や「花と泳ぐ」に比べても、圧倒的にギャグが少なすぎると思うのです。(というか最近はほぼ一切ギャグ無しですよね)
もちろんテーマがテーマですから、ギャグなんか挟めない、と言われればそれも分かります。でも、初めからあのシリアスな展開にいくことが決まっていたならば、何も4コマという形式を採って連載始めなくても・・・と思ってしまいます。(先ほど書いたとおり、4コマ=ギャグというのは中々否めないと思うので)
まあ、もちろんこう書くと「じゃあふたりごと自由帳の『グッバイ』や『春にして君を想う』は4コマとして成り立っているのか」という議論にはなってしまうのですが・・・。
管理人さんはどんな風にお考えですかね?
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